やましなす皆様。復活クダブラー斉藤です。
上記一文だけ読んでもらって、意味が全く分からない方も多くいる事と思いますがそんな事はおかまいなしに新年一発目のブログをくだぶらせて頂きます。
「人生最後の日に何が一番食べたいですか。」
これは私がお客様との会話の中で、突発的に尋ねてみる話術の一つとして多く用いてる質問です。
明日人生が終わると分かった時、最後に食べたいもの。
女性の方は「鮭茶漬け」「アユの塩焼き」「湯豆腐」等、所謂豪華な食事ではなく素朴でさっぱりした料理が多く、男性は「阪急のインディアンカレー」「吉野家のネギ抜きつゆだく牛丼」等外食で食べ応えがある物をあげられる事が多い集計が私の中で取れ始めております。
尋ねた後にはほとんどの方に「では斉藤さんは何を所望されますか」と聞き返されます。
私の中での最後に食べたいものは例に漏れずどれもが外食であり、候補は長きの間四天王として君臨していました。
その四天王の内約は、西友の南にあった「ベルの焼きそば」と東野妙見道の「バラ亭のカレーうどん」。
これらは将棋で言う所の飛車角で、飛び立って王将の側から離れて行ってしまった彼らの他に「金と銀」が存在しています。
前置きがいつも通り長くなりましたが、今回のブログはその内の「銀」についての愛を語りたいと思います。
銀とは「ラーメン二郎」。
東京で修行に明け暮れていた若かりし頃。私は長く新宿区の高田馬場という街に住んでいました。
その街は有名な大学や学校が多く存在する事もあり、学生向けの食べ物やとラーメン屋さんがとても多く存在していました。
私が住んでいたマンションにたどり着くまでの道すがらにその「ラーメン二郎・高田馬場店」がありました。
狭い店舗の前にはいつ見ても恐ろしい位の行列が出来ていて、初めて並びに行った時の緊張感は今でも忘れられません。
ラーメンを食べるのに緊張感があるのか。
そう思われた方のために説明すると、今では全国的に「二郎系ラーメン」と言う名前が出来たくらいすっかり有名になってしまったラーメン二郎ですがとても特殊なシステムが多々存在します。
「水やレンゲは席に着く前に自分で用意しておく(忘れると店の中が狭いので取りに戻れない)」※店舗によってはレンゲは置いていません
「食べられる量を注文する事(普通盛りの量が通常の二倍以上ある為)」
「店主に聞かれるまで言葉を発してはいけない(店主に注意されます)」
「魔法の様な呪文(トッピング)を覚えて置き、且つスムーズに声にして発しないといけない(慣れていないとにらまれます)」
「当然残してはいけないが、それ以上に時間をかけて食べてはいけない(20分以上席に座っていると店主に注意されます)」
「食べた後はどんぶりをカウンターに乗せ御ふきんで綺麗にテーブルを拭いておく(ご馳走様の意味を込めたマナー)」
と言うように特徴をあげればキリが無く筆おろし時は非常に敷居が高く、それ程ルールが分かっていなかった為非常に重い空気の中ラーメンをすすっていた記憶があります。
注文は前払い食券制。メニューには並盛、大盛、ミニサイズ位しかなく発券してから順番を待ち店主に呼ばれたら空いた席に着席。テーブル上には割りばししか常備されておらず、コップやレンゲ、ティッシュ等は入り口に洗いっ放しにして置かれたものをとってからでないと水すら飲めない状態で食べないといけません。
着席してからカウンターに食券を置き、あとは自分の順番で店員さんが聞いてくるまで黙って座っていないといけません。
しばらくして「ニンニク入れますか」の声掛けをしてくるので、その際にトッピングを注文。
ただ単に「はい。」と言えば刻みニンニクだけたっぷりと入れてもらえるのですが正しくは「ニンニクで」と発声します。因みにニンニクを多めに入れて欲しかったら「ニンニクマシ」。
他にも、もやしを多めに入れて欲しかったら「ヤサイ」。大盛で「ヤサイマシ」。超盛で「ヤサイマシマシ」。
背脂を多めに入れる場合は「アブラ」。
味を濃くして(カエシを多めに入れて)ほしかったら「カラメ」。
「アブラカラメ」「ニンニクアブラヤサイマシマシ」「ヤサイニンニクアブラマシ」
オーダーがまとめて調理され、準備が完了して客にニンニクを入れるか聞かれる度に、店内では呪文のような言葉が飛び交い始めるのです。
トッピングは席に座った順に聞かれるので順番が来るまでの間、前の人の呪文を聞きながら「自分は上手に詠唱できるのであろうか」と不思議な緊張感を持つ事になります。
それらを乗り越えて自分の前に置かれた丼には迫力たっぷりの盛り付けがなされています。
ラーメン天のように下に皿が置かれるわけでも無いのに溢れそうに注がれた汁をこぼさないようにカウンターからテーブルに下ろします。
落ち着く場を探している普通の麺の3倍はあろうかと言う太麺が縁から落ちそうになりながら、被さってくるもやしやキャベツの重さに必死に耐えていて、その野菜達をコインゲームの滝落としのように横から逼迫させてくる映画の時のジャイアンの様なでかくて柔らかいチャーシュー達。
ビールで言うと注がれたばかりで溢れそうな泡を減らそうと思ってしまう様なこの状態でも焦ってはダメで、まだやる事があります。
もやしやチャーシューが後乗せで冷めているので、すぐ食べ始めるのではなく汁をこぼさないように注意しつつそれらをゆっくり返しながら混ぜ合わせてから漸く食べ始める事が出来るのです。
食べ始めるまでのこれら一連の動作は、例えるなら古来から神社等に参拝に行くとき「二礼二拍手一礼」という作法がありますがアレに似た感じと思っています。
そして麺を返し始めているとある事実に気が付きます。
麺が多すぎて全て返せない、と言うか底が見えないし上に乗っているモヤシ達を食べないと麺にたどり着けないのでは無いか。
そんな不安を感じながらかき氷のシロップのかかってない氷の如く、最初に上部にあるほんのり味の付いたモヤシを食べ始めるのですが、早くもこの時点で少しづつお腹が膨れ始めます。
やっとの思いで食べ始められる麺とスープ。スープは醤油ベースでそこまでしつこくないくせに極太麺にまとわりつく背脂がとても甘辛く「スープ」がどうでも良くなるくらい麺や野菜が美味しく感じます。
麺を4分の1ぐらい食べていると、マラソンのように食べるペース配分を考えないと何か不味い事になりそうな危機感に襲われ始めます。
そしてややペースを上げながら食べ続けてお腹がいっぱいになった時点で丼の中を覗き込み「ヘイお待ち」と今目の前に出されたかのようなタップリ1人前残っている麺を見て、不味い所では無くヤバイ事だと知らされるのです。
食べようが飲み込もうが一向に見えない麵の下にあるであろうスープ。折り返し地点は過ぎているのに箱根駅伝の復路6区を走っているかの如く恐怖に似た感覚を覚えます。
そして無事食べ終わった時に美味しさによる幸福感、そして不思議な達成感と満足感が体中を包んでくれます。
この感覚は他のどの食べ物でも得られないものだと断言できます。
ご存知の方も多いと思いますが私はラーメンが結構好きです。
しかしそれらラーメンと「ラーメン二郎」は全てにおいて根本的に違います。
ラーメン二郎は「試行錯誤して作った上品なスープを味わってくれ」というありきたりな意図が無く「早く麺とチャーシューをがっついてくれ」という(ラーメン業界に対しての)反社会的なメッセージによって作られたものなのだと勝手に理解しています。
満腹感がすさまじく昼に食べたならその日は夜ご飯が。夜に食べたなら次の日の朝昼御飯が全く食べられなくなります。
ラーメン屋に入って「○○定食」や他に餃子や炒飯を追加で注文すると大体1200円位の値段になると思いますが、ではその人は何故追加注文するのでしょうか。
色々食べたいという欲張りな心。いいえ違います。余裕があるから、そして満腹感が足りないからです。
ラーメン二郎はご飯やおかずを食べてる余裕を与えてくれません。
1杯780円のラーメンだけで恐ろしい位の満足感を1日中与えてくれます。
そんな「銀」であるラーメン二郎ですが京都の一条寺にも支店があります。
夢に出て来てしまった二郎ラーメンに衝動を抑えきれず意を決して京都店に出向き久しぶりの再会を果たした私が、月に一回1人で必ずラーメン二郎に行くようになってから半年が過ぎました。
駐車場代200円を払い狭い通路で30分程並び、持参した爪楊枝を強烈なニンニク臭がする車内でいつも定位置にあるチャーシューの繊維が詰まった奥歯に充てながら、一仕事した後の様な幸福感に包まれて運転して帰る蹴上インクラインは毎月京都の四季を感じさせてくれます。
先日、高校以来の親友を連れて二人で食べに行きました。(席はパネルでセパレートになっています)
私と違い予習や前準備する事に楽しみを見出さない彼は、あれだけ伝えたのに全く知識を入れず入店。心配になった私が聞いて直前でその事が判明し、簡単に説明した所「なるほど余裕やな。俺はヤサイマシマシニンニクカラメって注文するわ。」と偉そうに息巻きました。
しかし昔から本番に弱い彼は刹那に圧倒されて「え。はいお願いします。」としか答えられませんでした。
私の横に座った彼は「声を出すな」という忠告を忘れて「めっちゃうまい。やっば。」と言いながら時間にして5分位リズムカルに麺をすする音を立てていました。
その後横目で確認できる範囲ですが、ペースを落としたとみられる彼は私が準備したアルコールシートですすりこぼれた汁を拭く行動を何故か多めに繰り返していました。
先に食べ終わった私に小声で「先に行っててくれてええし」と話しかけてきた彼の表情には、若かりし頃私が感じたような愛しさと切なさと心細さが見受けられました。
10分後。彼の為に買ったコカ・コーラを後部座席に置いて待機していた私の車の元に戻って来た彼の口から最初に出た言葉は「なんとか登り切ったわ。」でした。
彼の中で二郎拉麺は登山として認識されたのでしょう。
マスクを装着していたせいかお互い口数は少ないものの必要最低限の会話だけが車内で交わされたのです。
「やばい」「やばいやろ」
「言う通りやった」「分かってくれる思うた」「凄いな」
「うまいやろ」「うまい」
ニンニクの匂いを消すために開け放れたウインド越しに新年の風を感じながら、お互いの表情を確認する事も無く交わされる心地よい会話は、多くの言葉を必要とせず二人の心をまた一歩近づけたのでした。
その日の夕方、お腹を減らした家族とは裏腹に相変わらず狂おしいほどの満足感のまま動きが鈍くなってる私の元に彼から一本のラインが入りました。
このラインの短い文章で彼との親友期間はより長く更新された事が確定。
私の「銀」は私だけのものでは無くなったかも知れませんが、感動を共有する事は本当に大切だと実感できました。
最初「銀についての愛を語る」と言っていたのにいつの間にか美しい友情話になってしまいましたがご了承願いたいと思います。
このブログを読んで、医療がひっ迫しているこの時期に友人を誘っての外食など不謹慎と思われた方もいると思います。
隠れてコソコソする事も嫌ですし、動かずして小さな思い出を作る努力を怠る事も嫌いです。
大切な時間を使ってくだらないブログを見に来てくださっている皆様のためにも、自分に嘘偽りなく生きて行こうと決めた2021年。
自分なりに最低限皆様に迷惑を掛けない様配慮をしての行動ですのでご勘弁いただきたく思います。
そんな私ですが今年も一年どうぞよろしくお願いいたします。
やましなす皆様。復活クダブラー斉藤です。
上記一文だけ読んでもらって、意味が全く分からない方も多くいる事と思いますがそんな事はおかまいなしに新年一発目のブログをくだぶらせて頂きます。
「人生最後の日に何が一番食べたいですか。」
これは私がお客様との会話の中で、突発的に尋ねてみる話術の一つとして多く用いてる質問です。
明日人生が終わると分かった時、最後に食べたいもの。
女性の方は「鮭茶漬け」「アユの塩焼き」「湯豆腐」等、所謂豪華な食事ではなく素朴でさっぱりした料理が多く、男性は「阪急のインディアンカレー」「吉野家のネギ抜きつゆだく牛丼」等外食で食べ応えがある物をあげられる事が多い集計が私の中で取れ始めております。
尋ねた後にはほとんどの方に「では斉藤さんは何を所望されますか」と聞き返されます。
私の中での最後に食べたいものは例に漏れずどれもが外食であり、候補は長きの間四天王として君臨していました。
その四天王の内約は、西友の南にあった「ベルの焼きそば」と東野妙見道の「バラ亭のカレーうどん」。
これらは将棋で言う所の飛車角で、飛び立って王将の側から離れて行ってしまった彼らの他に「金と銀」が存在しています。
前置きがいつも通り長くなりましたが、今回のブログはその内の「銀」についての愛を語りたいと思います。
銀とは「ラーメン二郎」。
東京で修行に明け暮れていた若かりし頃。私は長く新宿区の高田馬場という街に住んでいました。
その街は有名な大学や学校が多く存在する事もあり、学生向けの食べ物やとラーメン屋さんがとても多く存在していました。
私が住んでいたマンションにたどり着くまでの道すがらにその「ラーメン二郎・高田馬場店」がありました。
狭い店舗の前にはいつ見ても恐ろしい位の行列が出来ていて、初めて並びに行った時の緊張感は今でも忘れられません。
ラーメンを食べるのに緊張感があるのか。
そう思われた方のために説明すると、今では全国的に「二郎系ラーメン」と言う名前が出来たくらいすっかり有名になってしまったラーメン二郎ですがとても特殊なシステムが多々存在します。
「水やレンゲは席に着く前に自分で用意しておく(忘れると店の中が狭いので取りに戻れない)」※店舗によってはレンゲは置いていません
「食べられる量を注文する事(普通盛りの量が通常の二倍以上ある為)」
「店主に聞かれるまで言葉を発してはいけない(店主に注意されます)」
「魔法の様な呪文(トッピング)を覚えて置き、且つスムーズに声にして発しないといけない(慣れていないとにらまれます)」
「当然残してはいけないが、それ以上に時間をかけて食べてはいけない(20分以上席に座っていると店主に注意されます)」
「食べた後はどんぶりをカウンターに乗せ御ふきんで綺麗にテーブルを拭いておく(ご馳走様の意味を込めたマナー)」
と言うように特徴をあげればキリが無く筆おろし時は非常に敷居が高く、それ程ルールが分かっていなかった為非常に重い空気の中ラーメンをすすっていた記憶があります。
注文は前払い食券制。メニューには並盛、大盛、ミニサイズ位しかなく発券してから順番を待ち店主に呼ばれたら空いた席に着席。テーブル上には割りばししか常備されておらず、コップやレンゲ、ティッシュ等は入り口に洗いっ放しにして置かれたものをとってからでないと水すら飲めない状態で食べないといけません。
着席してからカウンターに食券を置き、あとは自分の順番で店員さんが聞いてくるまで黙って座っていないといけません。
しばらくして「ニンニク入れますか」の声掛けをしてくるので、その際にトッピングを注文。
ただ単に「はい。」と言えば刻みニンニクだけたっぷりと入れてもらえるのですが正しくは「ニンニクで」と発声します。因みにニンニクを多めに入れて欲しかったら「ニンニクマシ」。
他にも、もやしを多めに入れて欲しかったら「ヤサイ」。大盛で「ヤサイマシ」。超盛で「ヤサイマシマシ」。
背脂を多めに入れる場合は「アブラ」。
味を濃くして(カエシを多めに入れて)ほしかったら「カラメ」。
「アブラカラメ」「ニンニクアブラヤサイマシマシ」「ヤサイニンニクアブラマシ」
オーダーがまとめて調理され、準備が完了して客にニンニクを入れるか聞かれる度に、店内では呪文のような言葉が飛び交い始めるのです。
トッピングは席に座った順に聞かれるので順番が来るまでの間、前の人の呪文を聞きながら「自分は上手に詠唱できるのであろうか」と不思議な緊張感を持つ事になります。
それらを乗り越えて自分の前に置かれた丼には迫力たっぷりの盛り付けがなされています。
ラーメン天のように下に皿が置かれるわけでも無いのに溢れそうに注がれた汁をこぼさないようにカウンターからテーブルに下ろします。
落ち着く場を探している普通の麺の3倍はあろうかと言う太麺が縁から落ちそうになりながら、被さってくるもやしやキャベツの重さに必死に耐えていて、その野菜達をコインゲームの滝落としのように横から逼迫させてくる映画の時のジャイアンの様なでかくて柔らかいチャーシュー達。
ビールで言うと注がれたばかりで溢れそうな泡を減らそうと思ってしまう様なこの状態でも焦ってはダメで、まだやる事があります。
もやしやチャーシューが後乗せで冷めているので、すぐ食べ始めるのではなく汁をこぼさないように注意しつつそれらをゆっくり返しながら混ぜ合わせてから漸く食べ始める事が出来るのです。
食べ始めるまでのこれら一連の動作は、例えるなら古来から神社等に参拝に行くとき「二礼二拍手一礼」という作法がありますがアレに似た感じと思っています。
そして麺を返し始めているとある事実に気が付きます。
麺が多すぎて全て返せない、と言うか底が見えないし上に乗っているモヤシ達を食べないと麺にたどり着けないのでは無いか。
そんな不安を感じながらかき氷のシロップのかかってない氷の如く、最初に上部にあるほんのり味の付いたモヤシを食べ始めるのですが、早くもこの時点で少しづつお腹が膨れ始めます。
やっとの思いで食べ始められる麺とスープ。スープは醤油ベースでそこまでしつこくないくせに極太麺にまとわりつく背脂がとても甘辛く「スープ」がどうでも良くなるくらい麺や野菜が美味しく感じます。
麺を4分の1ぐらい食べていると、マラソンのように食べるペース配分を考えないと何か不味い事になりそうな危機感に襲われ始めます。
そしてややペースを上げながら食べ続けてお腹がいっぱいになった時点で丼の中を覗き込み「ヘイお待ち」と今目の前に出されたかのようなタップリ1人前残っている麺を見て、不味い所では無くヤバイ事だと知らされるのです。
食べようが飲み込もうが一向に見えない麵の下にあるであろうスープ。折り返し地点は過ぎているのに箱根駅伝の復路6区を走っているかの如く恐怖に似た感覚を覚えます。
そして無事食べ終わった時に美味しさによる幸福感、そして不思議な達成感と満足感が体中を包んでくれます。
この感覚は他のどの食べ物でも得られないものだと断言できます。
ご存知の方も多いと思いますが私はラーメンが結構好きです。
しかしそれらラーメンと「ラーメン二郎」は全てにおいて根本的に違います。
ラーメン二郎は「試行錯誤して作った上品なスープを味わってくれ」というありきたりな意図が無く「早く麺とチャーシューをがっついてくれ」という(ラーメン業界に対しての)反社会的なメッセージによって作られたものなのだと勝手に理解しています。
満腹感がすさまじく昼に食べたならその日は夜ご飯が。夜に食べたなら次の日の朝昼御飯が全く食べられなくなります。
ラーメン屋に入って「○○定食」や他に餃子や炒飯を追加で注文すると大体1200円位の値段になると思いますが、ではその人は何故追加注文するのでしょうか。
色々食べたいという欲張りな心。いいえ違います。余裕があるから、そして満腹感が足りないからです。
ラーメン二郎はご飯やおかずを食べてる余裕を与えてくれません。
1杯780円のラーメンだけで恐ろしい位の満足感を1日中与えてくれます。
そんな「銀」であるラーメン二郎ですが京都の一条寺にも支店があります。
夢に出て来てしまった二郎ラーメンに衝動を抑えきれず意を決して京都店に出向き久しぶりの再会を果たした私が、月に一回1人で必ずラーメン二郎に行くようになってから半年が過ぎました。
駐車場代200円を払い狭い通路で30分程並び、持参した爪楊枝を強烈なニンニク臭がする車内でいつも定位置にあるチャーシューの繊維が詰まった奥歯に充てながら、一仕事した後の様な幸福感に包まれて運転して帰る蹴上インクラインは毎月京都の四季を感じさせてくれます。
先日、高校以来の親友を連れて二人で食べに行きました。(席はパネルでセパレートになっています)
私と違い予習や前準備する事に楽しみを見出さない彼は、あれだけ伝えたのに全く知識を入れず入店。心配になった私が聞いて直前でその事が判明し、簡単に説明した所「なるほど余裕やな。俺はヤサイマシマシニンニクカラメって注文するわ。」と偉そうに息巻きました。
しかし昔から本番に弱い彼は刹那に圧倒されて「え。はいお願いします。」としか答えられませんでした。
私の横に座った彼は「声を出すな」という忠告を忘れて「めっちゃうまい。やっば。」と言いながら時間にして5分位リズムカルに麺をすする音を立てていました。
その後横目で確認できる範囲ですが、ペースを落としたとみられる彼は私が準備したアルコールシートですすりこぼれた汁を拭く行動を何故か多めに繰り返していました。
先に食べ終わった私に小声で「先に行っててくれてええし」と話しかけてきた彼の表情には、若かりし頃私が感じたような愛しさと切なさと心細さが見受けられました。
10分後。彼の為に買ったコカ・コーラを後部座席に置いて待機していた私の車の元に戻って来た彼の口から最初に出た言葉は「なんとか登り切ったわ。」でした。
彼の中で二郎拉麺は登山として認識されたのでしょう。
マスクを装着していたせいかお互い口数は少ないものの必要最低限の会話だけが車内で交わされたのです。
「やばい」「やばいやろ」
「言う通りやった」「分かってくれる思うた」「凄いな」
「うまいやろ」「うまい」
ニンニクの匂いを消すために開け放れたウインド越しに新年の風を感じながら、お互いの表情を確認する事も無く交わされる心地よい会話は、多くの言葉を必要とせず二人の心をまた一歩近づけたのでした。
その日の夕方、お腹を減らした家族とは裏腹に相変わらず狂おしいほどの満足感のまま動きが鈍くなってる私の元に彼から一本のラインが入りました。
このラインの短い文章で彼との親友期間はより長く更新された事が確定。
私の「銀」は私だけのものでは無くなったかも知れませんが、感動を共有する事は本当に大切だと実感できました。
最初「銀についての愛を語る」と言っていたのにいつの間にか美しい友情話になってしまいましたがご了承願いたいと思います。
このブログを読んで、医療がひっ迫しているこの時期に友人を誘っての外食など不謹慎と思われた方もいると思います。
隠れてコソコソする事も嫌ですし、動かずして小さな思い出を作る努力を怠る事も嫌いです。
大切な時間を使ってくだらないブログを見に来てくださっている皆様のためにも、自分に嘘偽りなく生きて行こうと決めた2021年。
自分なりに最低限皆様に迷惑を掛けない様配慮をしての行動ですのでご勘弁いただきたく思います。
そんな私ですが今年も一年どうぞよろしくお願いいたします。