「ほいっとよいっと」とは
京都市山科区で行われている地域祭り「山科祭り」にて行われている神輿の掛け声。4年前程「わっしょいわっしょい」から「ほいっとよいっと」と言う勇ましい掛け声に変わる。
古くはおよそ300年前、京都市内の高瀬川(木屋町横)の水路による運輸(伏見~京都間)にて当時の働き手たちが荷物の積み下ろしの際に掛けていた掛け声「ほいっと」が由来とされている。
「よいっと」は合いの手による受け側の声で「よいしょ」から来ているとされている。
又、漢字で書くとほいっとは「祝人」(祝う人)と書き縁起の良い言葉からきているとも言われている
尚、神輿の先頭付近で日の丸の国旗が描かれた扇子を振っている氏子がいるが、由来や由縁は一切なくただ単にノリでやっているだけ。
---三之宮神輿会副会長 タケシ君よりーーー
私たちの住む愛すべき街山科。
秋になると毎年行われている「山科祭り」での神輿の歴史はとても深く長いモノ。
上記にある様に掛け声も独特な勇ましい言葉になり、御神輿の担ぎ方も「ただ担いで回る」だけでなく、パフォーマンスをしながら緩急をつけて練り歩く、と言うものになりました。
今回の御神輿の氏子(担ぎ手)で30数年前に「山科祭り」に参加された事のある久しぶりな方達に聞いた所、「以前の御神輿と全然違って活気もあるし何よりも楽しくなった」と言われていました。
そう「楽しい」。神輿の魅力の全てがこれだと思います。
前置きが長くなりましたが、要約時間が少しできたので今回は10月の第3日曜日に行われた「山科祭り」の神輿に参加した際の事をブログりたいと思います。
何の事か分からない方は
1 以前のブログを見て頂く或いは「ほいっとよいっと」で検索を掛ける
2 心を改めて山科の事をもっと深く愛し直す
どちらかを処方下さい。
10月19日(日)快晴
祭り当日、朝4時半にイーグルスの「Take it easy」によって快調に目覚めた私。
昨年とは打って変わって天気予報では一日中雲一つない快晴、との予報で気温も最高28度まで上がると言う事でした。
前回、晒(さらし)に法被のみ、と言う服装で寒さの余りお腹を下し、踏ん張ると実が出そうになってろくに御神輿を担げなかった私は、今年は晒の上にユニクロのランニングシャツを身につけて参加する事にしました。
神輿会会長であるチバチャン(ゴン中山似の男前)の計らいで、朝に奥様のおにぎりを御馳走になる為5時半に待ち合わせ場所につき軽くビールを飲み干して活気を付けて神社に入ります。
早速受付を済ませに並びに行きますが、今回で2回目となった私にとってすべてが別世界のように輝いて見えました。
「そうそう。去年はここですでに恥ずかしい思いもしたし知り合いも少なかったよな」
周りを見渡すと、昨年は見なかった顔ぶれも結構増えていてどう見ても私より若いオボコい感じの人たちが目立ちました。
「〇〇は御神輿どうやって担ぐか知ってる」「なんか緊張してくるな」
ふっ。
そんな若い声を横耳で聞きながら東野のブロックの受付で名前を伝えると
「おお斉藤さん。今回もお疲れ様です。えっと・・・今年は法被(はっぴ)のレンタル無し、ですね。」
「はい。持ってますから。」
「あと・・・今年は肩当どうしますか。」「いりません。」
肩当どうしま、位で間髪入れず不要の旨(むね)を伝える粋な男斉藤。
そうです。今年の私は「氏子経験者」。ザクとは違うのだよザクとは。
昨年は初参加、もしかしたら今回の一回だけで終わるかも知れないと言う理由で法被もレンタルで済ませてしまい、祭り終了後返却を迫られて寒空の中晒のみで家までダッシュさせられました。
それより何より襟元に書かれてある「ナンバーリング」がとても格好悪い気がしてなりませんでした。
初心者だった私から見ても、色々教えてくれたり見ていて担ぎ方が慣れている方たちは、ほぼこの数字が無い法被を着用されていてイナセ具合「数字の無いほうがイナセ」と言う違いが分かったのです。
まあ優越感に浸りたかっただけ、とも言う。
そして肩当。コレもまた私からすれば「イナセじゃない」と言う思いが強く、海で例えると「救命具を付けて波に向かうサーファー」。今から戦場に向かうから痛いの当り前なのにそんな弱腰でどないすんねん、と言う感じがしたのです。
まあ格好つけたかっただけ、とも言う。
そして神輿巡行の無事の祈願をすませ、隊は早速担ぎ出されていきます。
例によって背の順に並ばされ左側の先頭より3番目(三枚目と言うらしい)に陣取った名実ともに三枚目な私。
取りあえず妙見道(東野の通り)を曲がるまでは担いでおかないと、妻と息子が見に来ているかも知れないので、初っ端の担ぎ手に立候補させて頂きました。
で。案の定少し遠くから神輿を眺めている妻と息子。お願いだからもっと近くに来といてよ。
そしてまずは山階小学校前あたりで軽くパフォーマンスを披露します。
以前もブログでお伝えしましたが、神輿は担ぎ手の交代のタイミングが要。途中で辛そうな顔をしている人を見つけたら間髪いれず交代を申し出合わなければいけません。
しかし今回は説明があまりなかったせいか初めての参加者が多いせいか皆積極的ではありませんでした。
私は慣れたものなので、出たり入ったりを早めのペースで繰り返していたのですが若い担ぎ手さん達がそんなに交代に行きません。
初めは黙って出入りを繰り返していましたが、その内どこからか先輩風が吹いてきてその若者達に指導するようになりました。
「ほら。もっと自分から中入らなあかんやん。ドンドン行ってや。」
偉そうにも後ろから肩や背中を押して神輿のほうに押しやり始めます。
若者「スンマセン。僕初めてでどうやって交代したらええんかわからんのですが。」
「しょうがないなぁもう。エエか。辛そうな人見つけてその人の肩ポンポン叩いてすかさず後ろから肩入れてあげればエエんや。分かったか。」
「ありがとうございます。」
後ろから変わる。
そしてその会話を聞いていた周りの若い子たちも「なるほど」とマネをし始めて幾分か速いペースで交代を名乗り出るようになりました。
アルコール&優越感に浸り始め気持ちが高揚していくのが分かりました。
その後何かあると聞いて来てくれる若い子たちに、何処が見せ場だとか担ぎ方のポイント等、昨年教えて貰った知識をあたかも自分の知識の様に休憩所で教えていると、神輿会会長からメガホンで神輿の担ぎ方について説明がありました。
「えっと、もっとみんな積極的に変わってあげて下さい。」
そう。俺言った通りやんほらな。
「あと変わる時分かってない人いるみたいなので、説明しときますが変わるときは肩ぁ叩いて交代の合図送ってあげて下さい。」
ほらな。俺のお蔭やぞお前ら。
「それと肩入れる(交代する)時、後ろから入ってる人多いけど、前から変わってあげないと危ないですよ。」
・・・・・
さあ休憩終わりだし担ぐとするか。
神輿の行列はしばらくして場所を変えてパフォーマンスを繰り返します。
その内、担ぎ手の数人に去年には気付かなかったある変化が現れました。
それは担いでいる方の肩の出血の跡。
昨年は雨の為それほど目立っていなかったのですが、先頭のほうで威勢よく担いでいる氏子さんの数人の法被の肩の部分に赤いシミが出来始めたのです。
シミが出来た氏子さん達は、休憩所に到着する度に周りの接待してくれる人や他の氏子に「うわっ凄いな」「どれ見せて」と取材を受け始めていました。
この感覚・・・・
小学校の頃、骨折してきたクラスメートのギブスに抱いたあの嫉妬にも似た感覚か。
むう。
血が欲しい。I need blood.
それからと言うもの、パットを入れていない分、肩は相当痛いはずなのに出血のしゅの字も見せない軟弱な肩を神輿から離れるたびにめくっては確認、めくっては確認を繰り返す馬鹿な私。
まだ出ないまだ出ない。
お前はとなりのトトロのメイちゃんか。
しまいには自ら赤く腫れている皮膚の上から爪でこすり出し、出血を促し始めた40歳。
そして時間が経過していき、真っ当なルートで出血して行った「漢」と書いて「男」と読む人達の法被の肩の部分は「血小板により茶色」に染められていき、ニセのルートで出血された私の法被は「リンパ液で外周が黄色っぽくにじんだ形の悪い目玉焼きの様なただのシミ」になって行きました。
その後、休憩所の度に出される接待の本酒やビール(今回は生ビールサーバーもありました)を飲みまくりながら各地を巡行します。
昨年、トイレには随分苦しめられた経験のある私はその休憩所の度に小出しに用を足し、出る前の正露丸の成果もあって一日快適に氏子ライフを満喫。
しかし飲み過ぎたせいで(覚えている範囲で日本酒7杯ビール10数本チューハイ2~3本)途中から担ぐのが面倒になり始めます。
しかも担ぐのに慣れ始めたナンバーリング野郎達(レンタル法被)に「もっと入ってやってや」なんて背中を押され始める始末。
ちょ。なんやねんお前ら。ナンバリングで出血もしてへんくせに。俺の肩見てみろコレ目玉焼き。ちょっと半熟やぞ。
コレハタマラナイ。
そこでうまくポジションを保つために取った行動が「会長や副会長への取材」という行動。
神輿の由縁や、これからの展望など恰(あたか)も宣伝にするからと言う名目で横に付いて色々と話をしてもらいました。
そして見せ場となる場所に近づいて来た時だけ「どやぁ。皆担いでるかぁ」という具合に神輿に近づいて行き急に張り切って担いでいました。
そして午後一番の見せ場となる「ハッピーテラダ前」に到着。
30分程前にLINEで届いた妻からのメッセージには「ハッピー寺田には見に行くので頑張ってね(ハート)」という文字が書かれていました。
ここは全力。
先ほどの休憩所で同級生たちの家族が子供連れで応援に駆け付け闌(たけなわ)になっている時、何とも言えない寂しさを感じた私も、ハッピーテラダさえ超えればハッピーヒロミにミラクルチェンジ。
よし。全力でテラダるぞ。(※テラダる・・・テラダで頑張る氏子)
しかし時間が押していた(遅れていた)せいもあって昨年より短いパフォーマンスにするとの事。
短くても良い。周りより大きく動いて大きな声を上げて、頑張っている父を息子たちに見せてあげたい。
親が出来る子への唯一の事は「背中を見せる」事。
ほいっとよいっと。ほいっとよいっと。
まわせぇ。まわせぇ。
どや。お父ちゃん頑張れてるか。お父ちゃん輝いているか。
神輿はなぁ。一人の力でやるもんやない。皆の力があってこそなんや。
結局担いでいる間にはチラ見こそすれど必死過ぎて愛する妻子の姿を確認できなかった私。
しかし家族と血の繋がりはそれ以上のものがあると信じていました。
やがてパフォーマンスは終了し、ビールを探しにテントに行くとそこに妻と娘の姿がありました。
「おお。いとったんか気付かへんかったわ。」
流れる汗。切れる息。
汗が目にかかってうっとおしいけどワザと拭かずに頑張った感もマックスに見せる心遣い。
そして探しまくっていたのにイナセに振る舞う私に妻から出た驚愕の言葉。
「お疲れちゃーん。蒼衣(息子)がウンチ踏ん張ってて行きたくな~いって言いだして遅くなって今着いたの。」
「だから肝心なところ見てないんだ。御免ね。」
去年とおんなじやないけ。
結局今年も昨年と同じく、家族に迎えられるどころか突っ込み倒す結果になり私のテラダは終わりました。
しかし丁度この日、店で展覧会が開催され、朝からずっとお客様の相手や裏方の仕事をこなしてくれていた妻。来てくれただけでも感謝です。
その後4時前に三之宮神社に到着して最後のパフォーマンスを力の限り担ぎまくります。
途中神輿会会長(チバチャン)からメガホンで
「どや。お前ら。もうしんどいかぁ。もうやめるんかぁ。」
と言う風に担ぎ手たちを煽(あお)る言葉がかけられ、皆からは
「まだまだぁ。やれるでぇ。」
という威勢のいい声が上がっていましたが、私はそれを聞いて
「チバチャン(会長)はSやね」と言う感想と
「笑福亭鶴光さん元気かな」という山科の神様に恐ろしく失礼な事を考えていました。
しかし最後のパフォーマンスを終えて本当に気持ちの良い感覚が身体の中を流れていくのが分かり、その後の祭りの無事を祝った祈祷での儀式が終わったあとの充実感は今年も半端ないモノでした。
普段は仕事や家族の為に一生懸命難しい顔をしたり疲れた疲れたと嘆いている男(父)たち。
この日だけはそう言った損得勘定、或いはしがらみ等を超えて「山科の活気づけ」や「体が動かせることの感謝」だけの心で精一杯力を出せる一日になるのです。
家に帰り足袋を脱ぎ、法被と木股を外して晒を取り、半裸状態で鏡を眺めると中年になった私の身体が見えました。
いつもは目を瞑(つぶ)りたくなるこの体も今日だけはとても感謝の気持ちでみれます。
来年も絶対担ぎたい。
そう思いながら身に着けていた装束に一礼をしてお風呂に入りました。
そしてその夜、声を掛けれられていた打ち上げの時間、爆睡してしまっていて参加できなくるほど深い眠りに入ってしまい翌日友人に怒られました。
山科の神様。
今年も一年無事に過ごさせて頂いて本当に有難うございます。
チバチャンを始め同級生で神輿を担いでいる皆。
こんな貴重なイベントに声を掛けてくれておおきにです。
これからももっともっと山科を盛り上げていくため、そして何より自分たちが輝き続けていける為、健康に気を付けて頑張って行きましょう。
肩の傷は祭りの勲章。
なんかちっちゃい皮膚がめくれた跡がありますがそれはさて置き、この時代に生きていられている事に感謝してこれからも人生楽しんで生きたいと思います。
写真は昭和49年生まれの同級生たちで撮った最高の写真。皆エエ男でしょ。
「ほいっとよいっと」とは
京都市山科区で行われている地域祭り「山科祭り」にて行われている神輿の掛け声。4年前程「わっしょいわっしょい」から「ほいっとよいっと」と言う勇ましい掛け声に変わる。
古くはおよそ300年前、京都市内の高瀬川(木屋町横)の水路による運輸(伏見~京都間)にて当時の働き手たちが荷物の積み下ろしの際に掛けていた掛け声「ほいっと」が由来とされている。
「よいっと」は合いの手による受け側の声で「よいしょ」から来ているとされている。
又、漢字で書くとほいっとは「祝人」(祝う人)と書き縁起の良い言葉からきているとも言われている
尚、神輿の先頭付近で日の丸の国旗が描かれた扇子を振っている氏子がいるが、由来や由縁は一切なくただ単にノリでやっているだけ。
---三之宮神輿会副会長 タケシ君よりーーー
私たちの住む愛すべき街山科。
秋になると毎年行われている「山科祭り」での神輿の歴史はとても深く長いモノ。
上記にある様に掛け声も独特な勇ましい言葉になり、御神輿の担ぎ方も「ただ担いで回る」だけでなく、パフォーマンスをしながら緩急をつけて練り歩く、と言うものになりました。
今回の御神輿の氏子(担ぎ手)で30数年前に「山科祭り」に参加された事のある久しぶりな方達に聞いた所、「以前の御神輿と全然違って活気もあるし何よりも楽しくなった」と言われていました。
そう「楽しい」。神輿の魅力の全てがこれだと思います。
前置きが長くなりましたが、要約時間が少しできたので今回は10月の第3日曜日に行われた「山科祭り」の神輿に参加した際の事をブログりたいと思います。
何の事か分からない方は
1 以前のブログを見て頂く或いは「ほいっとよいっと」で検索を掛ける
2 心を改めて山科の事をもっと深く愛し直す
どちらかを処方下さい。
10月19日(日)快晴
祭り当日、朝4時半にイーグルスの「Take it easy」によって快調に目覚めた私。
昨年とは打って変わって天気予報では一日中雲一つない快晴、との予報で気温も最高28度まで上がると言う事でした。
前回、晒(さらし)に法被のみ、と言う服装で寒さの余りお腹を下し、踏ん張ると実が出そうになってろくに御神輿を担げなかった私は、今年は晒の上にユニクロのランニングシャツを身につけて参加する事にしました。
神輿会会長であるチバチャン(ゴン中山似の男前)の計らいで、朝に奥様のおにぎりを御馳走になる為5時半に待ち合わせ場所につき軽くビールを飲み干して活気を付けて神社に入ります。
早速受付を済ませに並びに行きますが、今回で2回目となった私にとってすべてが別世界のように輝いて見えました。
「そうそう。去年はここですでに恥ずかしい思いもしたし知り合いも少なかったよな」
周りを見渡すと、昨年は見なかった顔ぶれも結構増えていてどう見ても私より若いオボコい感じの人たちが目立ちました。
「〇〇は御神輿どうやって担ぐか知ってる」「なんか緊張してくるな」
ふっ。
そんな若い声を横耳で聞きながら東野のブロックの受付で名前を伝えると
「おお斉藤さん。今回もお疲れ様です。えっと・・・今年は法被(はっぴ)のレンタル無し、ですね。」
「はい。持ってますから。」
「あと・・・今年は肩当どうしますか。」「いりません。」
肩当どうしま、位で間髪入れず不要の旨(むね)を伝える粋な男斉藤。
そうです。今年の私は「氏子経験者」。ザクとは違うのだよザクとは。
昨年は初参加、もしかしたら今回の一回だけで終わるかも知れないと言う理由で法被もレンタルで済ませてしまい、祭り終了後返却を迫られて寒空の中晒のみで家までダッシュさせられました。
それより何より襟元に書かれてある「ナンバーリング」がとても格好悪い気がしてなりませんでした。
初心者だった私から見ても、色々教えてくれたり見ていて担ぎ方が慣れている方たちは、ほぼこの数字が無い法被を着用されていてイナセ具合「数字の無いほうがイナセ」と言う違いが分かったのです。
まあ優越感に浸りたかっただけ、とも言う。
そして肩当。コレもまた私からすれば「イナセじゃない」と言う思いが強く、海で例えると「救命具を付けて波に向かうサーファー」。今から戦場に向かうから痛いの当り前なのにそんな弱腰でどないすんねん、と言う感じがしたのです。
まあ格好つけたかっただけ、とも言う。
そして神輿巡行の無事の祈願をすませ、隊は早速担ぎ出されていきます。
例によって背の順に並ばされ左側の先頭より3番目(三枚目と言うらしい)に陣取った名実ともに三枚目な私。
取りあえず妙見道(東野の通り)を曲がるまでは担いでおかないと、妻と息子が見に来ているかも知れないので、初っ端の担ぎ手に立候補させて頂きました。
で。案の定少し遠くから神輿を眺めている妻と息子。お願いだからもっと近くに来といてよ。
そしてまずは山階小学校前あたりで軽くパフォーマンスを披露します。
以前もブログでお伝えしましたが、神輿は担ぎ手の交代のタイミングが要。途中で辛そうな顔をしている人を見つけたら間髪いれず交代を申し出合わなければいけません。
しかし今回は説明があまりなかったせいか初めての参加者が多いせいか皆積極的ではありませんでした。
私は慣れたものなので、出たり入ったりを早めのペースで繰り返していたのですが若い担ぎ手さん達がそんなに交代に行きません。
初めは黙って出入りを繰り返していましたが、その内どこからか先輩風が吹いてきてその若者達に指導するようになりました。
「ほら。もっと自分から中入らなあかんやん。ドンドン行ってや。」
偉そうにも後ろから肩や背中を押して神輿のほうに押しやり始めます。
若者「スンマセン。僕初めてでどうやって交代したらええんかわからんのですが。」
「しょうがないなぁもう。エエか。辛そうな人見つけてその人の肩ポンポン叩いてすかさず後ろから肩入れてあげればエエんや。分かったか。」
「ありがとうございます。」
後ろから変わる。
そしてその会話を聞いていた周りの若い子たちも「なるほど」とマネをし始めて幾分か速いペースで交代を名乗り出るようになりました。
アルコール&優越感に浸り始め気持ちが高揚していくのが分かりました。
その後何かあると聞いて来てくれる若い子たちに、何処が見せ場だとか担ぎ方のポイント等、昨年教えて貰った知識をあたかも自分の知識の様に休憩所で教えていると、神輿会会長からメガホンで神輿の担ぎ方について説明がありました。
「えっと、もっとみんな積極的に変わってあげて下さい。」
そう。俺言った通りやんほらな。
「あと変わる時分かってない人いるみたいなので、説明しときますが変わるときは肩ぁ叩いて交代の合図送ってあげて下さい。」
ほらな。俺のお蔭やぞお前ら。
「それと肩入れる(交代する)時、後ろから入ってる人多いけど、前から変わってあげないと危ないですよ。」
・・・・・
さあ休憩終わりだし担ぐとするか。
神輿の行列はしばらくして場所を変えてパフォーマンスを繰り返します。
その内、担ぎ手の数人に去年には気付かなかったある変化が現れました。
それは担いでいる方の肩の出血の跡。
昨年は雨の為それほど目立っていなかったのですが、先頭のほうで威勢よく担いでいる氏子さんの数人の法被の肩の部分に赤いシミが出来始めたのです。
シミが出来た氏子さん達は、休憩所に到着する度に周りの接待してくれる人や他の氏子に「うわっ凄いな」「どれ見せて」と取材を受け始めていました。
この感覚・・・・
小学校の頃、骨折してきたクラスメートのギブスに抱いたあの嫉妬にも似た感覚か。
むう。
血が欲しい。I need blood.
それからと言うもの、パットを入れていない分、肩は相当痛いはずなのに出血のしゅの字も見せない軟弱な肩を神輿から離れるたびにめくっては確認、めくっては確認を繰り返す馬鹿な私。
まだ出ないまだ出ない。
お前はとなりのトトロのメイちゃんか。
しまいには自ら赤く腫れている皮膚の上から爪でこすり出し、出血を促し始めた40歳。
そして時間が経過していき、真っ当なルートで出血して行った「漢」と書いて「男」と読む人達の法被の肩の部分は「血小板により茶色」に染められていき、ニセのルートで出血された私の法被は「リンパ液で外周が黄色っぽくにじんだ形の悪い目玉焼きの様なただのシミ」になって行きました。
その後、休憩所の度に出される接待の本酒やビール(今回は生ビールサーバーもありました)を飲みまくりながら各地を巡行します。
昨年、トイレには随分苦しめられた経験のある私はその休憩所の度に小出しに用を足し、出る前の正露丸の成果もあって一日快適に氏子ライフを満喫。
しかし飲み過ぎたせいで(覚えている範囲で日本酒7杯ビール10数本チューハイ2~3本)途中から担ぐのが面倒になり始めます。
しかも担ぐのに慣れ始めたナンバーリング野郎達(レンタル法被)に「もっと入ってやってや」なんて背中を押され始める始末。
ちょ。なんやねんお前ら。ナンバリングで出血もしてへんくせに。俺の肩見てみろコレ目玉焼き。ちょっと半熟やぞ。
コレハタマラナイ。
そこでうまくポジションを保つために取った行動が「会長や副会長への取材」という行動。
神輿の由縁や、これからの展望など恰(あたか)も宣伝にするからと言う名目で横に付いて色々と話をしてもらいました。
そして見せ場となる場所に近づいて来た時だけ「どやぁ。皆担いでるかぁ」という具合に神輿に近づいて行き急に張り切って担いでいました。
そして午後一番の見せ場となる「ハッピーテラダ前」に到着。
30分程前にLINEで届いた妻からのメッセージには「ハッピー寺田には見に行くので頑張ってね(ハート)」という文字が書かれていました。
ここは全力。
先ほどの休憩所で同級生たちの家族が子供連れで応援に駆け付け闌(たけなわ)になっている時、何とも言えない寂しさを感じた私も、ハッピーテラダさえ超えればハッピーヒロミにミラクルチェンジ。
よし。全力でテラダるぞ。(※テラダる・・・テラダで頑張る氏子)
しかし時間が押していた(遅れていた)せいもあって昨年より短いパフォーマンスにするとの事。
短くても良い。周りより大きく動いて大きな声を上げて、頑張っている父を息子たちに見せてあげたい。
親が出来る子への唯一の事は「背中を見せる」事。
ほいっとよいっと。ほいっとよいっと。
まわせぇ。まわせぇ。
どや。お父ちゃん頑張れてるか。お父ちゃん輝いているか。
ほいっとよいっと。ほいっとよいっと。
まわせぇ。まわせぇ。
神輿はなぁ。一人の力でやるもんやない。皆の力があってこそなんや。
ほいっとよいっと。ほいっとよいっと。
結局担いでいる間にはチラ見こそすれど必死過ぎて愛する妻子の姿を確認できなかった私。
しかし家族と血の繋がりはそれ以上のものがあると信じていました。
やがてパフォーマンスは終了し、ビールを探しにテントに行くとそこに妻と娘の姿がありました。
「おお。いとったんか気付かへんかったわ。」
流れる汗。切れる息。
汗が目にかかってうっとおしいけどワザと拭かずに頑張った感もマックスに見せる心遣い。
そして探しまくっていたのにイナセに振る舞う私に妻から出た驚愕の言葉。
「お疲れちゃーん。蒼衣(息子)がウンチ踏ん張ってて行きたくな~いって言いだして遅くなって今着いたの。」
・・・・・
「だから肝心なところ見てないんだ。御免ね。」
去年とおんなじやないけ。
結局今年も昨年と同じく、家族に迎えられるどころか突っ込み倒す結果になり私のテラダは終わりました。
しかし丁度この日、店で展覧会が開催され、朝からずっとお客様の相手や裏方の仕事をこなしてくれていた妻。来てくれただけでも感謝です。
その後4時前に三之宮神社に到着して最後のパフォーマンスを力の限り担ぎまくります。
途中神輿会会長(チバチャン)からメガホンで
「どや。お前ら。もうしんどいかぁ。もうやめるんかぁ。」
と言う風に担ぎ手たちを煽(あお)る言葉がかけられ、皆からは
「まだまだぁ。やれるでぇ。」
という威勢のいい声が上がっていましたが、私はそれを聞いて
「チバチャン(会長)はSやね」と言う感想と
「笑福亭鶴光さん元気かな」という山科の神様に恐ろしく失礼な事を考えていました。
しかし最後のパフォーマンスを終えて本当に気持ちの良い感覚が身体の中を流れていくのが分かり、その後の祭りの無事を祝った祈祷での儀式が終わったあとの充実感は今年も半端ないモノでした。
普段は仕事や家族の為に一生懸命難しい顔をしたり疲れた疲れたと嘆いている男(父)たち。
この日だけはそう言った損得勘定、或いはしがらみ等を超えて「山科の活気づけ」や「体が動かせることの感謝」だけの心で精一杯力を出せる一日になるのです。
家に帰り足袋を脱ぎ、法被と木股を外して晒を取り、半裸状態で鏡を眺めると中年になった私の身体が見えました。
いつもは目を瞑(つぶ)りたくなるこの体も今日だけはとても感謝の気持ちでみれます。
来年も絶対担ぎたい。
そう思いながら身に着けていた装束に一礼をしてお風呂に入りました。
そしてその夜、声を掛けれられていた打ち上げの時間、爆睡してしまっていて参加できなくるほど深い眠りに入ってしまい翌日友人に怒られました。
山科の神様。
今年も一年無事に過ごさせて頂いて本当に有難うございます。
チバチャンを始め同級生で神輿を担いでいる皆。
こんな貴重なイベントに声を掛けてくれておおきにです。
これからももっともっと山科を盛り上げていくため、そして何より自分たちが輝き続けていける為、健康に気を付けて頑張って行きましょう。
肩の傷は祭りの勲章。
なんかちっちゃい皮膚がめくれた跡がありますがそれはさて置き、この時代に生きていられている事に感謝してこれからも人生楽しんで生きたいと思います。
写真は昭和49年生まれの同級生たちで撮った最高の写真。皆エエ男でしょ。